この小説はおそらく、実際にあった不倫の末の殺人事件をヒントにしている。その事件では、希和子にあたる女性が不倫相手の子どもを殺し、罪に問われた。
愛する人が他の女とつくった子ども。憎しみや復讐心があったのだろう。それはすんなりと分かる。
希和子は不倫相手の子どもを誘拐した。不思議とそこに復讐心は見られない。確かにその行動は身勝手だ。しかし、逃亡先の島で出会った気のいい青年に対し、「外の世界を知らずにこの人と恋愛してたら幸せだったろうが、薫(誘拐した娘)に会えなかった」と思うほどの強い愛なのだ。道が分かれていたとしたら、幸も不幸も関係なく、その先に薫がいる方を選ぶという。希和子は不倫相手を思い出すこともほとんどなく、愛は一直線に薫に向かう。
誘拐事件は発覚。薫は親のもとに戻り、恵理菜という本来の名も取り戻す。成長した恵理菜は、嫌悪する希和子と同じく、妻帯者に恋をし、妊娠する。公園のトイレで妊娠検査薬を試し、堕ろすことを考えて行った病院で、医師のふとした言葉から産むことを決意する。
そして、やっと、相手の男と別れることができた。男に会いたくなったら、「世界で一番好きだ」と子どもを抱きしめればいい、と分かったから。
それが母性なのかもしれない。希和子にしろ恵理菜にしろ、母性とは身勝手で押し付けがましくて、だからこそ見返りを求めないものなのかもしれない。
そして、この母性を導くのは男。どれほどひどく、情けない男でも女は好きになるし、それは理性では制御できない業である。そこから先に進むには、子どもという存在は救いとなるのだろうか。子どもというよりも、愛したい存在との出会いか。
現実でどれほど辛く、納得できない恋をしていようとも、救いを得ることはできる。産むとか産まないとか産めないとかではなく、救いとなるもの(愛するもの)を求める気持ちをもつことだ。憎むのではなく、自分の中の愛したい気持ちを見つめればいい。それがまた、次の業を生むとしても、それでも愛し続ければいい。間違っていても歪んでいても、愛することで救われるのかもしれない。
