2015年4月21日火曜日

山崎ナオコーラ 『人のセックスを笑うな』

みるめくんもユリちゃんも、不器用に自分勝手だと思った。
そして、2人の関係は希薄なものといえばそうなのだけれども(だから「笑うな」だよね)、恋とはそういうものだとも思った。他人からしたら“都合よいだけの関係”ともみえるし、でもその答えは他人には分からない。みるめくんはユリちゃんを好きだけどえんちゃんにキスもできるし、ユリちゃんだって旦那とは離れない。でも好きだし、キスだってセックスだってしたい。だからって、将来に向かって道筋をたてるとかにはならないけれど。

不器用に自分勝手。で、しっかりと切ないほどに傷つく。恋って辛すぎる。

2015年3月21日土曜日

串田孫一 『文房具56話』


哲学者串田孫一の著書。タイトルの通り、文房具への思いをつづった一冊。幼いころの遊びの工夫も、よりよい仕事をするためのこだわりも、文房具とともにあったようだ。

本書を読むと、選択と観察がいかに重要であるかということを学べる。数ある選択肢の中から、一つのものを選ぶという行為は、対象が何であれ日々の暮らしにおいて特別なことでもなんでもない。思えば私は今日も、昼ごはんにどのメーカーのカップラーメンを食べるか、コンビニの棚の前で悩んできた。
ただ、なぜそれを選んだのかと反芻することが大切なのだと思う。隠れた己の意思と向き合えるかもしれない。

2014年12月28日日曜日

角田光代 『八日目の蝉』

希和子はなぜ、不倫相手の子どもに愛を注ぐのか。

この小説はおそらく、実際にあった不倫の末の殺人事件をヒントにしている。その事件では、希和子にあたる女性が不倫相手の子どもを殺し、罪に問われた。
愛する人が他の女とつくった子ども。憎しみや復讐心があったのだろう。それはすんなりと分かる。

希和子は不倫相手の子どもを誘拐した。不思議とそこに復讐心は見られない。確かにその行動は身勝手だ。しかし、逃亡先の島で出会った気のいい青年に対し、「外の世界を知らずにこの人と恋愛してたら幸せだったろうが、薫(誘拐した娘)に会えなかった」と思うほどの強い愛なのだ。道が分かれていたとしたら、幸も不幸も関係なく、その先に薫がいる方を選ぶという。希和子は不倫相手を思い出すこともほとんどなく、愛は一直線に薫に向かう。

誘拐事件は発覚。薫は親のもとに戻り、恵理菜という本来の名も取り戻す。成長した恵理菜は、嫌悪する希和子と同じく、妻帯者に恋をし、妊娠する。公園のトイレで妊娠検査薬を試し、堕ろすことを考えて行った病院で、医師のふとした言葉から産むことを決意する。
そして、やっと、相手の男と別れることができた。男に会いたくなったら、「世界で一番好きだ」と子どもを抱きしめればいい、と分かったから。

それが母性なのかもしれない。希和子にしろ恵理菜にしろ、母性とは身勝手で押し付けがましくて、だからこそ見返りを求めないものなのかもしれない。
そして、この母性を導くのは男。どれほどひどく、情けない男でも女は好きになるし、それは理性では制御できない業である。そこから先に進むには、子どもという存在は救いとなるのだろうか。子どもというよりも、愛したい存在との出会いか。

現実でどれほど辛く、納得できない恋をしていようとも、救いを得ることはできる。産むとか産まないとか産めないとかではなく、救いとなるもの(愛するもの)を求める気持ちをもつことだ。憎むのではなく、自分の中の愛したい気持ちを見つめればいい。それがまた、次の業を生むとしても、それでも愛し続ければいい。間違っていても歪んでいても、愛することで救われるのかもしれない。

2014年3月30日日曜日

内田百閒 『冥途・旅順入城式』

何も用事はないけれど思いつくままに汽車に乗って大阪にいってみたり、飼い猫がいなくなったといっては毎日メソメソ涙にくれ、蓋の上に寝ていた姿を思い出すからとの理由で風呂にも入れなくなったり、好きな食べ物があれば1ヶ月ほども同じものを食べ続けたりと、内田百閒はそんなかわいらしい作家だ。

「阿房列車」「ノラや」「御馳走帖」など、随筆に人気作が多いが、この「冥途・旅順入城式」は、それらとは違って幻想的・怪奇的な世界を織りなす短編集。不気味な一冊だ。

いくつかの短編で成り立つ「冥土」は、そのほとんどが正体不明な何かに誘われ、あとをついていくうちに不安を覚え、説明不可能な世界に漂うというものだ。川べりであったり夕闇であったり曲がり角であったり、一歩足を進めると、その行方には条理が通じない世界が待っている。恐ろしげでありながら、なぜかその迷い込む様は奇妙におかしい。あらがえない不気味さを、どこか俯瞰的な視点で突き放すように捉えているからだろうか。

短編の中でも、特に人気が高いと言われているのが「件」。人の顔をした牛に変身してしまった男が、突然放り込まれた不安の世界。オチも秀逸(ユーモラス!)で、この短編集の魅力を代表する作品の一つに思う。

2013年6月5日水曜日

小田実 『何でも見てやろう』

旅をしたくなる本、といったところか。そのタイトルの通り、「何でも見てやろう」の精神で1960年代の世界を旅をした作者の貧乏旅行記。手持ちのお金はごくわずか。身体一つで歩き回る。その先々で、「いかに安くあげたか」を自慢する。そればかりか、「いかに外国の女にもてたか」も自慢する。鼻持ちならないが、その開けっぴろげな告白には良くも悪くもひきこまれる。好奇心という空腹を、ムシャムシャと貪りつくすように満たしていく旅行記だ。

そんなわけなので、非常にパワーのある作品。そのパワーに惚れ込む人もいれば拒否反応を起こす人もいるだろう。出版は1961(昭和36)年。ガガーリンが宇宙に飛び立ち、地球一周に成功した年だ。冷戦の真っ只中だったわけだ。そんな時代を象徴する一冊である。

2013年3月14日木曜日

ジッド 『田園交響楽』

盲目の少女を牧師がひきとるところから、物語は始まる。牧師の賢明な教育により、少女は美しく知的に変化する。そのうち、少女は視力を取り戻したいと訴える。しかし、光を得たとたん、少女は自殺する。

なんとも気持ちの悪い小説だ。欺瞞であった牧師の“愛”が、とても気持ち悪い。その下心には、独占欲があったのだが(おそらく肉欲も)、神の言葉を隠れ蓑に「愛」として説くのだから、なんとも嫌らしい。少女の無知に、“無垢なるもの”を勝手に見出しているようで、そこも傲慢だと思う。

視力を取り戻した少女は、これまでの矛盾や罪悪感から自殺する。光を得た途端に罪を知るという悲劇的な宿命を負った構図となっている。

おそらく、私も含めて人は生きている限り、多少なりとも見て見ぬふりというのをしている。誰かを傷つけたり、大事な人に嘘をついたり、偽りの自分を演出したり。それを直視せず、罪として深く意識せずに生きている。いうなれば、精神的な盲人なわけだ。真実を見ようとすればするほど、自分自身の汚濁を見つめなくてはいけないわけで、そこと折り合いをつけるには、大なり小なり見て見ぬふりという手段が必要なわけだ。

2012年2月8日水曜日

大岡昇平  『野火』

飽食の時代、「飢え」を想像することはできない。さらに、いつ殺されてもおかしくない状況というのも想像ができない。それだけ、戦争というのは異常な体験なのだ。

主人公は太平洋戦争下のフィリピン戦線で戦う日本兵、田村。結核におかされて本隊を追われ、飢えと疲労の熱帯をさまよう。道すがらには兵の死体が横たわる。死んだ兵士の肉を食べる者もいる。生と死の境界線上にいて、なおも肉体は食べることを要求し、死んだものは誰かの生のために食われるのか。
田村も食べたい欲求にかられる。だが、≪神≫の視線から逃れられない。拒む理由は倫理なのか生理的嫌悪なのか。田村は悩む、苦しむ。生きるために悩む。しかし、「肉体を保つために人としての道を外れて食べる」、もしくは「人の道をまっとうするために食べずに死ぬ」と、どちらに転んでも“生きてはいけない”選択肢しか、この極限状態では残されていないのだ。

田村は、最後の最後まで葛藤する。怒りともいえる執念で問い詰め続ける。